灰色の街。
 夜明け、霧の深い狭い路地裏に、一つの白いシルエットが立っている。
「さて、弱りましたね」
 AAA=Jack。名無しのジャックは、目深にかぶった帽子のツバをつまんで吐息した。
 対面。大通りへの出口に、一人の男が立っている。
 そして手には日本刀。
 面長のその男性は、それを構え。
「この気配……人外であるな」
 いやはや、とジャックは首を振った。
「疑問ではなく断定されると、何も言えませんね」
 その言葉を聞かずに、男はジャックへと踏み込んだ。

○――

 灰色の街。ビル群の中で、一人の男が頭を掻いていた。
「弱ったもんだよなぁ……」
 場所は路地裏。今朝未明、通り魔事件のあった現場だ。
「“現代に蘇った切り裂きジャック”とでも題しようかと思ってたんだが……」
 男の職業はライターだ。
 ノンフィクションも書けば、フィクションも書く。生活のために、文章を売る職業だ。
 彼は現場で写真を撮り。
「今回は未遂。通報時には加害者被害者両名ともいなかった、と」
 続けてデジタルカメラを操作して、過去の写真を見返す。
「過去の被害者はすべて“人ともつかない姿をとっていた”……はずなんだが、警察の検分時には皆ただの遺体になっている」
 見るのは運よく被害直後、現場で撮ることのできた写真だ。しかし。
「……何の変哲もない、遺体だよなぁ……」
 確かに当時、奇怪な姿をした者が死んでいたはずだ。そして確かに、写真におさめた。それが、今は嘘か悪い夢だったかのようになっている。
「弱ったもんだ」
 うまくすれば、平素の三ヶ月分程度の収入が期待できるかと思ったが、そうは上手くいかないようだ。
 ただ一つ。普通の人間の遺体であっても、奇妙な点は見て取れた。
「刀傷」
 刺し傷とはまるで違う、「重量のあるもので、断ち切られた傷」は、素人目に見ても日本刀のようなもので斬られたものだとみてとれた。
「……辻斬り方面の記事にするかなぁ……」
 言って、ふと路地の片隅に少年が座っていることに気がついた。
 白い帽子に、白いコート。青い髪の少年は、普段であれば奇異にも感じるが、しかしそれよりもじっとうずくまっている姿に、違和感を感じて男は声をかける。
「具合でも悪いのか?」
 少年はびっくりしたように顔を上げて、「失敗したなぁ」というように困った顔をした。
「いえ、お構いなく。ちょっとそこで手を切ってしまいまして。――それより」
 少年はすっと立ち上がり、帽子をかぶりなおした。
「記者の方ですか?」
 男が「フリーライターというやつさ」と答えると。少年は「そうですか」と一言。
「自分が記事にならないように気を付けてくださいね」
 その一言の直後、ライターの男は背後に気配を感じた。それも、背筋が凍るような気配だ。
「!?」
 慌てて振り返るが、誰もいない。
「なんだよ、変なこと言うから……」
 視線を戻す。と、そこに少年の姿はなく。
「あなた……この通り魔事件、調査をしているのですか?」
 代わりに、黒髪和服の、高校生程度の女性が立っていた。
「お……おう」
 狐につままれた気分になりながら、答えると女性に頭を下げられる。
「どうか、お願いです。お兄ちゃん――兄を探してください」
 霧深い街の路地裏。
 未だ霧は深いまま、日差しも届かない。

○――

 日も暮れて夕刻。黄昏時になってライターは改めて女性と会うこととなった。
 まずは喫茶店で話を聞き、そして今はそこから出てきたところだ。
 ライターに語った内容。黒髪の女性が言うにはこうだ。
「つまり、良家のなんたら流剣術の兄さんが、代々伝わる妖刀に魅入られて人斬りを行っている……と」
 妖刀伝説につきものの話だ。
 黒髪の女性は頷いた。
「刀の銘は“恩切”。かつては鬼を斬ったと言われていましたが、ある時、鬼ではなく人を斬った。故に、それ以来、恩を切る妖刀として兄の家に伝わっている、と聞いております」
 話を聞きながらライターは少しの違和感を感じたが、その違和感の正体には気付かず話を続ける。
「で、そのにーちゃんの行きそうな場所やら狙いそうな人物やらってのはいないのかい?」
 女性は少し考えて。
「兄の、ではなく、妖刀の、であれば」
 なるほど、とライターは頷いた。この女性の兄は、妖刀に魅入られている。オカルト的な考えを省いても、自己暗示によって妖刀然としたふるまいをする可能性が高い。
「じゃあ、いったいどんな奴がどこで狙われるんだ?」
 女性は「そうですね」と言いながら、薄暗い路地へと進んでいく。
「場所はこのような人気のない場所」
 慣れたような、物怖じしない足取りで女性は路地の奥へ、奥へと進んでいく。
「まぁ……人通りの多い場所じゃ、人斬りは出来ないよな」
 ライターもその後ろをついてゆくが、しかし、女性の足は速く、小走りになっても追いつけない。
 そして。
「な、なぁ、妙にこの路地……長くないか?」
 さらに、日は落ちかけとはいえ、路地の闇が、吸い込まれるように深い。
「そして狙われる人物は――」
 闇の中に女性が消えて、ライターは足を止めた。
 一瞬だけ、荒くなった息を止め。
 そして、無言で振り返る。
「どちらへ?」
「ひ」
 その先に、件の女性が居た。
「いかがなさいました?」
 じったりと、汗がにじむ。
「いや。なんでもねぇ……」
 女性に向かい合ったまま。一歩をさがる。
「では。奥へ」
 女性も一歩進んで、男もさがる。
 前面には女性。背には闇。
 黒髪を、闇に揺らすその女性から、男は視線を逸らさない。
「なぁ……」
 いや、逸らせない。
 ここに来て、圧倒的な恐怖が男性の胸の奥底に渦巻いている。
 闇よりも。まだ見ぬ人斬りよりも。目の前の女性に対する、恐怖。
「そういや嬢ちゃん。あんた……何者だい?」
 言って一歩をさがる。すると、肩に何か硬いものがぶつかった。
 刀。白刃の日本刀が、地面から突き立っている。
「……わた……し?」
 不意に、女性の雰囲気が変わる。
 動揺。
 今まで男性を見据えるようにしていた女性の目が泳ぎだす。
「私は……」
 顔を覆い、震え出す。
 周囲の闇が立ち上がり、有象無象の姿を形作る。
 そして、あげた女性の顔。その半分に変化があった。
 角。そして金色に光る獣のような瞳。
「本性あらわしやがった……」
 それを覚悟として、ライターの男は日本刀を手に取った。
「叩き切ってやるッ」
 直後だ。日本刀から、ぞわり、と気配がのぼり、男を包む。
「あ……ああ……」
 女性の表情が、変わる。
 男の気配も、変わる。
「……叩き切ってやる……」
 男が口にすれば、確かにその通りの心持になる。
 叩き切る。
 それが、自分の命。
「ああ、お兄ちゃん……また会えた……」
 うっりと、女性がつぶやく。すでに先ほどのような、動揺した様子はない。
 そして男は、意識を手放す。

○――

 素敵ですわ、と女は思う。
 かつて自分を救ってくれた男性。
 人斬りと堕ちた今でも、その思いは変わらない。
 いったい次は、誰を斬ってくれるのか。
 私の邪魔をする、誰を斬ってくれるのか。
「さあ……お兄ちゃん。行こう?」
 どこでもいい。
 誰でもいい。
 願いは、それだけだ。
 誰を斬ってもいい。誰が斬ってもいい。それが自分の救いなのだ。それが自分の“お兄ちゃん”なのだ。
「……見つけたぞ」
 声に、女性は顔を向ける。
「お兄ちゃん。獲物が来たよ」
 現れたのは、着物姿の面長の男性。そして手には日本刀。
「えもの……」
 女と行動を共にしていた男は刀――妖刀“恩切”を振りかぶる。
「今日こそ果たそう――我が命を」
 対し、和服の男は有無を言わせず踏み込んだ。
 一瞬遅れて、妖刀の男も踏み込む。
「斬り捨て――御免ッ」
 次の瞬間響いたのは、刃と刃が交わる音。
 それが、二つ。
「……ぐ」
「――貴様は」
 刃を交わす、その二人の真ん中に、第三の男が現れた。
 白い帽子に白いコート。小柄な少年。
 そして手には、小さなジャックナイフと、杖。それが二人の刃を受け止めていた。
「――特別に、“切り裂きジャック”の御登場。ってね」
 ふふ、とジャックは小さく笑った。
 あいだに入られた二人はジャックから距離を置く。
「邪魔をするな、人外。俺には斬らねばならぬものがある」
「NothingOne化した妖刀“恩切”」
 表情を余裕のあるものから少しだけ困ったようなものにジャックは変える。
 一息ついて。妖刀男の背後に回って、後ろから小手を強く打った。男は妖刀を手放して、力なく倒れる。
「“記事”になってしまわなくて、良かったですね」
 まぁ、今回は巻き込まれただけですし。とジャックは小さく言う。
 倒れた男がぼやけた目で見るのは、自分が意識を手放した場所。妖刀の落ちていた場所だ。
 その闇の中には人ともつかない死体がある。
「こんな……三文小説……記事に出来るか」
 それを聞いて、ジャックは優しく笑みを作る。
「強い人だ」
「なぁ……アンタは……」
 ライターの男はジャックを見て、そして、女を見直す。
「お兄ちゃん……!? また消えちゃうの!? どこっ、ねぇ、お兄ちゃんッ!!」
 そこにはうろたえる黒髪の女。
「なぁ……いったい、何者だよ」
 それだけ言ってライターの男は今度こそ気を失った。
 ジャックは一つの安心を顔にして、そしそのまま、顔を悲しいものに変えた。
「私は……私は、何者……」
『あなたはだあれ?』
 誰にも聞こえない声が響いた。
『あなたは、なにになれた?』
「わた……しは……」
 おお、と叫び、女性のその姿が変貌する。
 巨大な刀の塊。
「とうとう人の姿ではなくなったか」
 和服の男が刀の怪異に声をかける。
「覚悟――ッ」
「いけないっ」
 男の太刀は、怪異の刃を断ち割る。一本、二本。
 しかし、そこまでだ。
「――っぐぅ!」
 怪異の一閃で男の刀は折られ、身体は地に打ち付けられる。
「――喚起!! 出でよ、ツヴァルシェント!」
 ジャックの言葉に半身であるツヴァルシェントが現れる。しかし、左腕の無い状態だ。
「僕の半身ですからね。まだ僕のダメージが抜けてない」
 ジャックが改めて左腕を見ると、そこには大きな刀傷がある。
「本当にNothingOneを相手に出来る太刀筋とは……」
 ツヴァルシェントの右腕。その巨大なジャックナイフが立ち上がる。
「惜しいわね」
 そして、ツヴァルシェントと刀の怪物はぶつかり合った。

○――

 和服の男はその場に倒れていた。
 変貌した、かつて自分を兄と慕ってくれていた女性の姿を見ながら。
 余命幾ばくもなく、死を待つ女性に、渡したのは一つの刀。自分の家に伝わる、宝刀だ。
 “願いを叶える”。
 そのための、刃。
 そして女性は、“死なないもの”になった。
 彼女に刀を渡す過程で、人を斬ったのもいけなかったのかもしれない。
 彼女を守るためとはいえ、この手で人を斬り、この手で彼女を人ではないものにしてしまった。
 今の、自分の使命は、“命を果たす”ことだ。
 目の前で繰り広げられる死闘に、和服の男は何も思わない。
 そして自分の傍らには、“願いを叶える”宝刀がある。

 迷いなど、ない。元より、そのつもりだ。

 そのために、刀を追っていたのだ。

○――

 ジャックはため息を吐いた。
「この太刀筋は生来のもの……弱ったわね」
 そして何より。
「切り裂きジャックは、罪のない女性は襲わなかったのに」
 “切り裂きジャック”を憑依させたジャックの口調は柔らかく――しかし確かな焦りを含んでいる。
「あなたの願いは、こんなもの?」
『私は……生きる……お兄ちゃんの……願い』
 参った、とジャックは思う。
 これは彼女の願いではない。
 誰かの願いが、彼女の願いであり、それを信じる限り、彼女はそれに捕らわれる。
「ならばその願い――俺が断ち切ろう」
 言って血まみれの男が立ち上がる。
 和服はボロボロで、しかし手には刀を――妖刀“恩切”を手にしている。
「……その力を受け入れることは、過去のあなたへの冒涜よ?」
 男は「そうだな」と頷く。
「救いたいと、思ったのでしょ? そのために、努力と苦労をしてきたのでしょう? ――いま、その力を受け入れることは、その想いの否定になるわ」
 男は頷く。
「承知。俺のためではなく、彼女のためだ」
「……犠牲に、なるつもり?」
 ジャックは眉根を詰める。
「ねぇ……彼女の名前、覚えてる?」
 男は大きく息を吸い。
「…………」
 吐いた。
「NotingOneになる、っていうのは、そういうこと」
 男は目を瞑り。
「もう、決めた事だ」
 声が響く。
『あなたはなぁに?』
 誰にも聞こえぬその声に、答えるのは和服の男。
「我は妖刀。妖刀“恩切”」
『あなたはなにに、なれた? 幸いは、えられた?』
 力強く。妖刀を握る。
「これから“果たす”」
 闇が、男の身体を包む。
「それが俺の、幸いだ」
 言った直後、嬉の気配が爆発した。
『わた……し……の』
 現れるのは片角の青年。獣の金眼を左に持つ、鬼だ。
「ああ、俺がお前の“お兄ちゃん”だ」
 だから。と妖刀“恩切”を構える。
「我、妖刀“恩切”――命を、果たせ」
 一閃。
 刀の怪異の身体。そのことごとくが砕かれ。
『――やっぱり、お兄ちゃんは、つよい、なぁ』
 怪異が笑った。
 だから、迷いなく“恩切”は怪異に太刀を振り上げ。
『わたしの……モコの……負け、だ、よ』
 告げられた名に迷い。
 しかし、
「来世では、幸せになろう。……モコっ!!」
 その命を、果たした。

○――

 ライターの男は、路地裏で目を覚ました。
「弱ったもんだよなぁ……」
 記憶がある。
 飛び飛びではあるが、記憶がある。
 そして、辻斬り事件が終わったことも、わかった。
「どーしたもんかね」
 ぽりぽりと頭を掻いて。
「――なぁ、“切り裂きジャック”」
 言われてびくりと、路地裏の片隅にいた少年が身を震わせた。
「……ホント、僕も弱ってますね」
 そう言って、諦めた表情で壁に寄り掛かった。
「それで。どんな記事にするんです? 文屋さん」
「ゴシップか、娯楽小説か……」
 やっぱり書くことは書くんですね、とジャックは呆れ顔だ。
「なぁジャック、あいつら、どうなったんだ?」
 それを聞いて、ジャックはさぁ、と一言。
 よっ、と寄りかかっていた壁から離れ歩き出す。
「満足して消え去ったか、また来世に蘇るか……それか、案外第二の人生を歩んでいたり、するかもしれませんね」
 わからんよなぁ、とライターの男もジャックとは別方向に歩き出し。
「じゃあな。楽しかったぜ、ジャック」
 路地の端、美術館の前で手を振る。
 そこには【限定展示 宝刀“恩切”】の看板。
「はい。では、御達者で」
 路地の対面、骨董品屋の前で帽子をかぶりなおして会釈をする。
 そのショウケースには【激レア 妖刀“恩切・小町”】の立札。
「……命を果たした魂って、どこへ行くんだろうな」
 ライターの男は晴れた空を見上げて。
 そして何もない日常に戻っていった。