夕闇が包みはじめた市街地。
その郊外に停車しているキャンピングカーが一つある。その中でピンクの髪の男が、一枚のパンフレットを手にしている。
「……くせぇな」
二度、すんすんと鼻を鳴らしたのは、ホークマインドだ。
それを聞いて、同乗していたアガットは手の平をパタパタと振り。
「わ、私じゃないよ!!」
慌てた様子で何かを否定する。ホークマインドも「そういうボケはいらねぇよ……」と言えば、アガット自身も「あれ、そうなの?」と、慌てた様子を解いた。
「ふぅん、ライブのパンフレットかー。鷹志君も、そういうお年頃かー」
「そうじゃねぇよ。……たかしでもねぇし、お年頃もちげぇよ」
律義律儀、と呟いて、アガットはキャンピングカーの給湯部へと移動する。
「ったく……」
ホークマインドも、もう一度鼻を鳴らしてシートに横になり、ため息を吐いた。
「何だろうなぁ、このニオイ……。くっせぇんだけどなぁ……」
ライブの会場すぐ近くの小さな地下ライブハウス。
開始時刻は――すでに過ぎていた。
○――
薄暗いライブ会場。
トランス系の曲と、光の明滅の中心で、踊る少女が一人。
狭い会場には、2~30人程度の若い男女がひしめいていた。
そんな会場の上段。地上一階に当たるバーのカウンターに、若い二組の女性が居る。
「ねぇ、おねぇちゃん……なんか、気持ち悪くない?」
「そうかしら? 夜の盛り場に、男女の熱気。良い精気が得られると思うのだけれど」
ノイエン・サキュバスとサーキュレット・サキュバスの、淫魔姉妹だ。
彼女たちは、ライブハウスのいたる所に設置されたモニターから、ライブの様子と、映像のパフォーマンスを見ていた。
「んー、なんだろう……ノイちゃんよくわかんないんだけど……“おいしくないの”が混ざってる?」
「近くにおせっかいな善神でもいるのかしらね? 平気よ。吸精はいつもの事。淫魔にとって、正しきことよ。干渉なんてないわ」
そう言うと、カクテルを一口飲んでわらう。
「――さぁ、夜はこれからよ」
そう言って、近くのモニターを指でなぞる。そしてこんこんこん、と爪でリズムをとり始めた。
次第に。場内に響くトランスの音楽に、リズムが合わさる。
爪のリズムがビートへと遷移し、場内の熱気が一変する。
「――ええ、そう。そう。ビートは鼓動。みんなみんな、鼓動を合わせて。身体を合わせて。熱気のリズムの中で、我を忘れて身を揺らすの」
見ればサキュもノイも淫魔の本性を露わにしているが、誰もそれに違和感を感じていない。
「インママインマシマインマ……インママインマシマインマ……」
サキュは手のひらを合わせるようにして、間に空間を作る。そして言葉が進むにつけて、その中に闇が生まれた。
「寄りて依りては燻る炎。闇より出でて無に帰す強き欲よ――そのイデアをあらわにしなさい!」
闇は強くなり、中央の女性へと吸い込まれた。
夜の空気の中。
熱いリズムの中。
すべてが淫魔の、夜の夢に支配され、欲望のままにすべてをさらけ出す。
――そのはずだった。
しかし。
「……変化ないわね」
「かっこつけたのにねー。……でも」
いぶかしむ淫魔姉妹の中で、ノイエンが気付く。
「やっぱり変だよ。お姉ちゃん……。この“詞”」
ノイが言う場内を包む音楽。
トランス系の曲の特徴である、繰り返しの速い曲調。その中で、歌や言葉を加工して使うこともある。
だが、今流れるその曲に使われている“メッセージ”は。
『善き意思を』『善き言葉を』『善き行いを』『預言者はかく語りき』『善き意思を』『善き言葉を』『善き行いを』『三徳つむ者は悪に勝る』『勝ち負けの中にあっても、最後には救われる』
ゆえに。
『悪を考えるな』『悪を吐くな』『悪行をやめよ』
そして。
『考えるな』『語るな』『行うな』
すべて。
『全て』
『全て』
『全て、主が救ってくださる』
そう。
「――そう」
それをとうとうとかたるリズムの中。
ライブハウスの中心。
一心不乱に踊っていた、一人の女性。
その傍らに、ライブハウスの支配人と思しき女性がマイクを持って語り出す。
「今は――」
腕を開き。
【善き、意思を】
場内すべてのモニターに、表示される言葉。
「何も考えずに、踊りましょう」
会場が、湧く。
それは淫魔の鼓動など一蹴する、圧倒的な熱気だった。
そこに至って、ようやくサキュも。
「……ノイの言うとおりですわね」
でしょー、でしょー、と拳を握って首をガクガク縦に振るノイに、サキュは「ちょっと落ち着きなさい」と一言。
「見てなさい。そこと……そこ。あと、あの子もね」
指した数名。
その者達が、不意に変化を遂げる。
常人とは思えない筋肉に、牙。そして何より額に生えた角。
誰かが、鬼だと叫んだ。
パニックになる場内。
しかしそれでも。
「踊りましょう」
ライブの主は、踊る。
「何も考えずに」
【善き意思を】
鬼に一人、食われた。
逃げるものが、食われた。
しかし。
「善き意思を」
踊るものは、食われない。
逃げるものから、追われ、食われる。
そして。
【来ましたね】
モニターの表示が、変わる。
地上一階。ライブハウスの出入り口。
「くせぇくせぇと思ったら……」
淫魔の妹が、怖れ震えて姉に抱きつく。
「てめーが“降りて”きやがったか、ウオフ・マナフ!!」
そこに立っているのは一柱の神。インドラそのものである、ホークマインドだ。
そのホークマインドを見て、踊っていたライブの主はニヤリと哂う。
「ううん。“今”、ようやく降ろせるようになった」
会場のビートが早まり、音楽はすでに騒音と呼べる域に達している。
音の中、ライブハウスの主が鬼の爪によって倒れた。
その中で。
【善き意思を】
モニターが語る。
【善き言葉と】
それらモニターも闇に溶け。
【善き行いと共に】
ただただ広い、闇のような空間が、広がった。
「お、おおお、お、おねーちゃーんッ。じゃっくん呼ぼうよーッ。絶対これノイちゃんたちマズイってーっ。ここ、いちゃいけない場所だよーッ」
「ののの、ノイ、落ち着きなさい。人が居ていい場所、いけない場所なんて、ございませんわっ」
空間の変化に慌てる淫魔姉妹に、ホークマインドは鼻でため息をついて。
「人ならな。……いいから、呼べるモンは呼んどけ。――お前らとは、格が違うのが、来るぞ」
言えば、ライブの主の少女は宙に浮き、くるりと回転して消えた。
そして、消えた闇の空間に、一つの巨大な物体が現れる。
耳はなく。
目は黒いバイザーに覆われ。
口は黒い帯が交差した。
マネキンの頭だけのような、そんな物体。
ただ、頭の左右から伸びた小さな手は、真っ赤に染まっている。
【お久しぶりですね】
【ヴリトラ殺し】【インドラ】【帝釈天】
数々のモニターが言葉をディスプレイする。
対するホークマインドは。
「お前らまで不文律を犯すたぁ、思ってなかったがな。ウオフマナフよ」
その言葉に、モニターは全て暗転。そして一拍の後に。
【全ては】【善き意思に基づく】【善き言葉と】【善き行動を】【広めるために】
すべてはモニター表示の文字の言葉。
「それが従えてるのが“鬼”と“異形”かよ」
ライブ会場だった闇の空間。そこにひしめくのは、“鬼”と、かつて人間であった“欲望の塊”だ。
「ののの、ノイちゃん違うよーっ。ぜんっぜん、関わってないんだからねーっ。うえーん、お姉ちゃん助けてーッ。また“じゃかあしいっ”って怒られるーッ」
「落ち着きなさいノイ。あの時『ピンクは淫乱ッ』とか言って怒られたのはあなたが悪いんのだから……。でも、そうですわね。一つ言わせていただければ、彼らが“堕ちた”のは、自然発生ですわ。我々と敵対するのは構いませんが、見当違いの理由では、あなたの沽券に係わりますので、その点はご理解いただきたいものですわね」
震えるノイを抱きなだめながら、サキュは言う。ホークマインドも、「そこまでいう必要はねぇよ」と前置きして。
「おめぇらの“淫気”でコイツのニオイが嗅ぎ分けられなかったんだ。それだけの仕事すりぁ、構わねぇ」
言えば。
【我、におわない】【善き香りを】【フローラル】
などとモニターが映し出すので、ホークマインドは叩き割った。
「で、ジャックは呼ばねぇのかよ」
「呼ぶわけありませんわ。――食事の邪魔をされた、こんな憂さ晴らし程度に」
「ちょっと調子に乗って、欲望に堕とそうとしたけどねっ。そうじゃなくても素直に呼ぶわけないのにー。かわいいっ。おねえちゃん、かわいいーッ」
ノイはそう言ってくねくねして。そして。
「だから、お姉ちゃんの力になるね」
身の。心の。力の全てを。異形へと転身させた。
ポルノマリス。
それは、ノイエン・サキュバスそのものだ。
その陶器のような巨大な物体に、サキュも呑み込まれていく。
「淫魔との共闘たぁ思いもしなかったが……露払いには丁度いい。こっちも顕すぞ。ヴィンドゥー……ラッ!」
巨大な雷帝。それが姿を現して。
【裁きましょう】【罰しましょう】
一つ。二つ。
【好戦的で】【不道徳】
三つ四つ。
【我らに背する悪神・悪魔を】
五つのモニターが、ウォフ・マナフの姿をとる。
【善き、意思の元に】
戦闘が始まった。
○――
サーキュレット・サキュバスは、鬼や異形を倒しながら、しかしその数に辟易する。
「まったく……何ですの。この数。倒しても倒してもきりのない……」
『ゆ……め……の、な……か』
そうですわね。と頷けば、ヴィンドゥーラもウオフ・マナフの一つに辿り着き。
「さっさと神界へ還りやがれっ。ヴァアァァァァジュラァアアアアアッ!!」
神器での一撃。
ウオフ・マナフは沈み。しかし。
【好戦的で】【不道徳】
【粗野で】【粗暴な振る舞い】
モニターが、言葉を作る。
【不文律を破ったのは】【私ではありません】
続く言葉を、一斉に表示する。
【あなたが、悪に堕ちたのです】
【地に降りたのはあなたの勝手】【暴飲暴食、好色淫乱、傍若無人、粗野粗暴】
【ですが】
ですが。
【それは、“インドラ”たる振る舞いですか?】
ウオフ・マナフは、光を発する。
ウオフ・マナフは、音無き音を発する。
ウオフ・マナフは、真っ赤に染まった爪でヴィンドゥーラを引き裂く。
「何が言いてぇんだ。まだるっこしいのは好きじゃねぇ」
苛立ったホークマインドに、サキュは少しの不安を感じる。それは。
――言葉に乗るのは……場のイニシアチブを相手に渡すということでしょうに。
それでも勝てる、圧倒的な自信の表れか。それとも慢心か。
【ならば、真言を】
【今のあなたは、“アンダル”です】
その名は。
【悪神の名】
【好色にして、傍若無人、粗野粗暴で不浄なるもの】
言葉は続く。
【この世界の混乱】
【混沌】
【“私”がここにいる理由】
【全ては】
そう。全ては。
【あなたの招いた――災厄】
【人界に降りることこそ過干渉】【邪悪を払うなどと傲慢の極み】【善き意思は、いずれ勝つのです】
だから。
【干渉をやめなさい】
【言葉を紡ぐのをやめなさい】
【考えることをやめなさい】
それこそが。
「――ああ」
それこそが。
「罪の、元か」
ホークマインドは、腕を一振りする。すると、闇が晴れて、ライブの主だった少女が現れた。
床に座った彼女は、呆然とただ、お経のようなものを読んでいて。そして――すぐに経文は焼き消えた。
「……さて」
ホークマインドは向き直り。
「何か言うことはあるか? ウオフ・マナフさんよ」
しかし、問われたウオフ・マナフは言葉を発しない。モニターも何一つの言葉も表さなかった。
「どういうことですの?」
サキュが問えば、ホークマインドは簡単に答える。
「くせぇくせぇと思ってたら、“嘘くせぇ”だったわけだ。まぁ、あと一歩で夢が現実になるところだったがよ。なぁ、ジャック?」
「夢だって現実の一部なんですけどね……。あと、呼んでもらえるなら、もっと早くにお願いしたかったのですけど……」
いつの間にやら現れたジャックと、そして闇を切り裂いて、無双王が現れる。
「そう言うなよ、ジャック。おかげで俺たちだけでもこっち側に潜り込めたんだ。感謝感謝っすよ! 鷹志さんっ」
言う醍醐に。
「たかしじゃねぇっつってんだろっ、ボウズッ」
ノリツッコミのホークマインド。そして。
「ぼ、坊主じゃねぇっすよ!! 鷹志さんッ」
「坊主だったのか」
「いつから副業が許可されたのだ?」
畳み掛ける、竜吉とさくら。
そして。
「……今なら逃げられそうですわね……」
逃げ道を確認するサキュバスと。
「淫魔姉妹が浮足立っていますわ。轟天様、御指示を」
「うむ。――夢現にて迷いし神鬼を、幻魔含めて神力にして伏滅す。玉石混交、清濁併せ呑む酒池肉林の会。皆様方、奮って参られよッ!」
ごく自然に淫魔二人を頭数に入れた撫子と轟天。
そんな共同戦線によって、『夜の夢』は神の幻と共に打ち砕かれた。
○――
人々の去ったライブハウス。
何事もなかったかのような、その場所には、呆然と座り込む女性が一人。
ライブの主だった、少女だ。
彼女はただ、ぼーっと天上を見上げていた。
そしてふと、もう一人の女性が現れる。
胸に爪痕を残した、ライブハウスのオーナーの女性だ。
「残念だったわね」
少女にオーナーは声をかけるが、反応はない。
オーナーは苦笑いして、髪を掻きあげる。
「まったく。能の無い人間を集めるのなんて簡単だと思ったのだけれど……今回は余計なものまで呼び込んでしまったわね」
見れば、そのツメは長く伸び、衣服も胸元まで開いたものに変化していた。そして何よりの変化は、額の角だ。
艶王鬼。鬼羅党四震王鬼の一人。人類の敵だ。
「まぁ、このアイドル? というのだったかしら。欲望の偶像だけでもいただいて帰ろうかしら……ね」
言った直後にツメが伸びて、少女を襲う。
しかし。
「……あら?」
そのツメは、ホワイトボードに阻まれた。
小さな、A4サイズほどのボードだ。
しかし、そこには。
【マナ子を甘く見てはいけません】
青い文字で、はっきりと書かれている。
そして、続くもう一枚を取り出した。
【未来見、預言。あの悪神は、それを“神界の干渉”ととったようですが、違うのですよ】
ツメの刺さったホワイトボードをゆっくりおろし、艶王鬼を見て不敵に笑って舌を出した。
【マナ子です】
次々に、ホワイトボードを切り替え、そして今度は手帳を取り出し。
【鬼を利用し、淫魔を呼び水に願望を練り上げ、そして本命の神を呼び出したまでは良かったのですが】
艶王鬼はその文字をじっと見つめる。
【台本を燃やされてしまっては、“神降ろし”もそこまでですね。まったく……ようやくマナ子が人柱となって、この世に平穏をもたらせると思ったのですが。またイチから作らねば、ぐぬぬーですよ】
見つめ終った艶王鬼は。
「半分も読めはしないけど、よおく伝わったわ。あなたの“狂気”」
【ありがとう】
頷く。
「そうね――この世界の境界線。“この世界”と呼べるものが、どこからどこまでなのか。そもそもあるのか……それこそが――」
独り言のように言う艶王鬼に、マナ子がわらう。
「そうね。“善き意思を”。全ては、暗鬼羅王様の御心のままに。考えるのは、私ではないわ」
【善き意思を】【信じる神を信じて】
「ええ。また、どこかで会いましょう」
【またのご利用、お待ちしております】
「まったく……いるものね、“食えない人間”って」
やり取りのあとで、鬼は消えて。
そして少女が一人。
「…………」
天井を見上げ。
「次こそは、私の消えた、綺麗な世界を」
そう言って。そして彼女も舞台から降りた。
○――
夜の繁華街。その路地裏に、淫魔が二人。
ノイエンはボロボロの服で、へろへろと宙を漂い。
サーキュレットは木の棒をついて、ふらふらと歩く。
「ひ、ひどい目にあいましたわ……」
「あひぇ~……ノイちゃんもう疲れたよー」
まさに満身創痍。ボロボロの姿で二人はゆく。
「な・ん・でっ。最後に『一応お仕置きだ』とか言って、私たちに雷撃落すんですのっ、あのピンク髪ッ」
「寝技に持ち込めば勝てたたもしれないのにー」
そして闇の夜空に、吠える。
「おぼえてなさーいっ!」