夜の街並み。
 青い月光は赤に染まり、世界にひびが入る。
 狭間から垣間見えるもの。それは無。
 ひとつの“何もない”が、確かにそこにある。
「やれやれ……困ったことになりました」
 赤くひび割れた世界の中。青白い結界の中に、名無しのジャックは居る。
 正面にはジッャクナイフも鉤爪も砕かれたツヴァルシェント。
 そして。
『かえ……して……』
 ノイエン・サキュバスの転身した姿、ポルノマリス。しかし、その姿はさらに変異していた。
「姉の願いを叶えたいという想い。そして、姉と共に居たいという想い」
 光の羽は闇を発して世界を浸食する。そして、その中心には。
「サーキュレット・サキュバス」
 彼女の姉が、手足を闇に沈ませながら、眠るように組み込まれていた。
「姉の、彼女自身の願いは魔界――NothingOneへの回帰」
 ポルノマリスが叫ぶ。
 嘆きの声。
『かえして……かえして……』
「彼女と居たい心と、彼女の願いを叶えたい心。そのバランスが崩れ、そしてその願いにNothingOneが応えてしまった。……ポルノマリス・アビス。光の届かない深海への使者」
 言ってジャックは身構える。
 来るのは咆哮。嘆きの塊と、闇の光線だ。
「くっ――」
 受けるツヴァルも見るからに疲弊している。それ以上に。
 ――この世界が持ちませんね。
 ジャックは杖を地面に突き立てる。同時、世界の天井が割れてポルノマリスもツヴァルも空へと落ちた。
『あ……あ……』
 落ちた先。そこは世界を、宇宙を一望できる場所だった。
 広く――ただ広いだけの空間。
 見渡す宇宙の合間を、一匹の巨大な蛇にも似た竜がゆっくりと泳いでいる。
 時には世界を貪り、時には泳いだ渦から世界が生まれ。それが当たり前のようにただ泳いでいる。
「嫉妬の象徴……。あんなものまで生み出して……」
 ジャックは眉を下げた。
「なんて……僕は悪い存在なんだ」
 今もポルノマリスの叫びは続いている。
 かえして。かえして。
 お姉ちゃんを闇に還して、と。
 私にお姉ちゃんを返して、と。
 だから反撃をしない。全てはジャックが悪いのだ。
「ねぇ……サキュさん……もう、終わりにしましょう。僕があなたを願ったせいで、僕らは何度も同じことを繰り返す」
 語りかけるように言うが、しかし声はサキュへと届かない。
「だからあなたはいつも苦しみ続ける。だから――この世界限りの“ノイエン”、新しいサキュバスなんて生んでしまった」
 うん。と一つ頷いた。
「ツヴァルシェント。もういいよ、僕の半身。僕じゃ――僕は勝てない」
 そして、今ある世界の破壊は止まらない。
「一つだけ、この世界を救う手段がある。最初から、こうしていればよかったんでしょうね」
 そう言って、結界を消した。
 直後、ツヴァルが動きを止めて、うなだれた。
『かえ……して……』
 世界を救う手段。放っておいても破壊と再生を繰り返す、当たり前の世界。そこで起こった、自分が居るからこそ起こった事象の抹消。その方法は。
「ええ、そう。“僕が消えれば”、何もなかったことになる。世界の観測者が消えて、“何もない日々”が彼らに返る」
 どうせまた、どこかの世界で生まれる定めなのだ。その時ノイエンはいないが、おそらくまたサキュは生まれてしまうだろう。
「ごめん」
 言えばゆっくりと、ツヴァルシェントが振り返る。
「ごめんな、僕の半身」
 背にポルノマリスの嘆きを受けながら、しかしゆっくりと腕を振り上げ――。
「何か、言いたいことでもあるのかい? でももう――」
 殴られた。
「――ッ!?」
 右のグーで。吹き飛んで掴まれて、そしてポルノマリスの攻撃の真正面へと突き出された。
『かえして……』『かえして……』
 その嘆きは。
『おねえちゃんに……かえして……』
『えがおを……かえして』
 ああ。
「ああ――、そうか」
 やはり、すべてジャックが悪かった。
 ジャックはため息一つ。
「すまない。目が覚めた」
 力強く、ツヴァルの指を叩いてそこから抜け出す。
 そして開いたツヴァルの手のひらに立ち、杖を突きたてた。
「僕もやはり、欲深だね。――だって、来世でまた会えるというのに、たった一瞬の、この一生ですら、君を失いたくないと、やはりそう思ってしまったんだから」
 魔法陣が展開して帽子をかぶりなおす。そしてサキュを見据える。
 その姿はゆっくりとポルノマリスの中の闇へと沈み、もはや身体の半分は沈んでいた。
「こんなものは僕の望んだ姿じゃない」
 サキュが沈む。
「どうせまた会えるからと。どうせまた生まれて死ぬのだと。そんなことで本当の想いを闇に沈ませる僕らじゃない!」
 サキュの顔がゆがみ、そしてまた沈む。
「その“泣き顔”を砕いて君を取り戻すッ!」
 沈み、沈み。
「だから――、僕が笑顔を取り戻すから、泣いててもいいからこっちへおいで。サキュ。僕の愛しい人」
 沈みきった。
 ジャックはため息一つ。
「……まったく……」
 その背後から、ぐずぐずとハナをすする音が聞こえる。
 彼は振り向かず。
 ――僕の魔法陣の内側に出現……まぁ、“他人じゃない”ってことですか。
 元はNothingOneの申し子。戻ってくる意志さえあれば、闇に沈んでも、自分の望む場所へと戻ってくる。
 息を整え。
「はい。ほら、はなちーん」
 ハンカチを貸すと、背後のサキュは素直に従い、そしてマントにくるまれる。
「――!?」
 響く骨をぶつけるような小さな音と、続く慈しみついばむような音。
「……痛かったですか?」
「びっくりしただけ……。焦りすぎ」
 言ってサキュは笑った。ジャックは「仕方ないじゃないですか」とだけ言って顔をそむける。
 世界では、嫉妬竜がその動きを活発にさせていた。
『かえ……して……』
 サキュはジャックのマントを羽織って立ち上がり、彼を背後から支えた。
「あの娘……悪い子じゃないの」
「わかってますよ」
 ノイエンは元々NothingOneの申し子。半身を砕いて助けるという方法はとれない。
 そもそも。
「勝てるの? ジャック」
 問いに、ジャックは笑った。
「あなたが居る限り、僕は無敵です」
 さらに嫉妬竜がのたうちまわる。
「なぜなら僕は、君の王子様だからっ。そして――」
 改めて杖を突きたてる。
「喚起!! 歴史に名を残さず、しかし次代の確かな礎たちっ。どこかの誰かの、一番大切な、最愛のヒーロー」
 ツヴァルシェントが青白く光り、そしてその周囲に無数の人魂が現れる。
「弱き者――汝の名は“名もなき霊”。だから、力を貸してくれ。僕ら名無しのジャックたち!!」
 人魂は無数のツヴァルシェントとなり、ポルノマリスを抑え込む。
『あ……ああ……』
「そう、この霊達は僕たちへの祝福だ。そしてノイさん、覚えておいて」
『わたし……の……い……』
 頷く。
「どんな女の子にも、必ず君だけの王子様がいる。絶対。絶対にだ。――僕と、サキュのように」
 暴れる嫉妬竜を、無数のツヴァルが抑え込む。
「だから君を――君の全てを砕いて、あなたも助けるッ!! 君の王子様を、その存在を、僕らを信じてッ」
 青く光るツヴァルは、ジャックとサキュを手のひらに乗せたまま、その光を強くする。
「ノイエン」
『お……ねえ……ちゃ』
 そしてツヴァルはポルノマリスへと飛び込んだ。
「ゆきましょう……ノイエン」
『いき……ましょう……』
 在るべき場所へ、行きましょう。
 一緒に、生きましょう。
 嫉妬竜も沈んで消えたその世界で。
 ツヴァルシェントも光を放ち、消え去った。

 だれも観測する者がいないその場所は、また当たり前のような静けさと、そして何もない闇を取り戻した。

○――

 ジャックは、ベッドの上で目を覚ました。
 窓の外にはレンガの街並み。その世界は、青い月明かりにやさしく照らされている。
 そして横には、裸の女性がすーすー寝息を立てている。
「……やれやれ」
 そういうオチですか。と身体を起こすと、窓の外の人影に気付く。
「いかがだったかしら? 私の淫夢は」
 ふわふわと浮くその人影は、見知ったもので――。
「……淫夢?」
 言ってから「あー」と困ったように布団をちらっとめくり、すぐ戻し。
「…………?」
 窓の外の人影――サーキュレット・サキュバスも怪訝な顔をして部屋に入り込んだ。
 ジャックはそろりそろりと布団から出て、身支度を整える。
「…………」
 ばっ、と勢いよく布団を剥がすと、そこには全裸の女。
「うにゃー。さーむーいー」
 猫のように丸まっている、ノイエン・サキュバスだ。
「のーいーちゃーん? なにやってるのかしらー?」
 明らかに怒っているが、それを口調には出さずに言うと、ノイはサキュに抱きつき。
「王子様さーがーしー」
 ジャックはそろりそろりとドアを開き。
「ジャック……?」
 ギギギ、とゆっくりサキュが首を向ける。
「ノイねー、思うのー。一夫多妻制って素敵よねーって。大奥? ってのも素敵かもー。ハーレムせーどばんざーいっ」
 サキュがニコリと笑い。
「……ですって。ねぇ、ジャック。どう思う?」
 ジャックは諦めた。
 何を、ではなく、瞬間的にあきらめた。
「ノイさんは、はやく王子様見つけてください」
「えー。おうじさまって、トランプのJでしょ? そーいうことじゃないの?」
 やっぱり駄目だ。
 眼前ではノイのぽわぽわした雰囲気と、サキュのドドドという怒気とが混ざり合って前線を作っている。
「まぁ……」
 ――これも僕が望んだ罪です。
「受け入れるしか、ないんですかね」
 口に出すと、闇が広がった。
「あ、ちょっとサキュさん……そういう意味じゃなくて……むしろ淫魔二人とかどう考えても無理ですよね……? ね?」
 まぁ、しょうがない。
 いつか消える、この世界。
 消えるからと言って、諦めることなど、出来やしないのだから。

『あなたはなぁに?』

『――どこにでもいる、どこかのだれか』

『あなたは何にになれた? 幸せに、なれた?』

 ああ、そうとも。

「これから、もっと幸せになって、いきましょう」


           ~ジャック・インザパンドラ~ END