空。
 繁華街を見下ろす空に、一人の男が立っている。
 足元には何もないが、しかしそれでも立っていた。
「さて、と。このへんか」
 男はオレンジの髪を風になびかせて下界を見下ろして、ふんふんと頷いた。
「なーるほど、あの野郎“タカシ”なんて呼ばれてんだな。へーぇ」
 うし、と楽しそうに頷いて男は空から飛び降りた。
「待ってろよ、“タカシ”ちゃん。トールちゃんのお礼参りだ」
 そう言って男は、街の中に消えて行った。

○――

 夕刻。陽は完全に落ちた黄昏時に、ホークマインドは繁華街に出ていた。
 理由は、足りない夕飯の材料を買いに出て帰ってこないアガットを探してだ。
「ったく、長ネギ一本で、子供でもあるまいし……」
 そう言ってから、「いや、子供だったな」と思い直す。
 ともあれ。
「こんなところまで来たのかよ」
 神特有の能力でアガットの歩いた道を辿ってみたが、それはどんどんと繁華街の最も華やかな奥地へと続いていた。
「おにーさーん、安いよー。いい子いるよー」
「サービスタイム中でーす。どうぞー」
 そんな声をかける男女問わない客引きに、ホークマインドは鬱陶しいと感じながら、先に進む。
 すると、アガットの気配が一つのビルへと続いていた。そこはいわゆるキャバクラだ。
「…………」
 どうしたものか、と思っていると、一人の女性が近づいてきて、ホークマインドの手を取った。
「興味があるなら入っちゃおうよ」
 笑顔で。
「ね、“タカシ”くん」
 女性がそういうので。ホークマインドは、導かれるまま、店へと入った。

○――

 入店して真っ先に見えたのは、10数人掛けのピンクのソファーに座る男だ。
 彼は周りに女性をはべらせ酒を呑み。
「よう、遅かったなぁ、“タカシ”ちゃん」
「てめぇの仕業か……ロキ!!」
 怒気で近場のグラスが割れるが女性たちは気にしない。まるで夢を見ているかのようにロキの接待を続けるだけだ。
「そー怒んなよ。俺は別に、ニンゲンちゃんに干渉しに来たわけじゃねぇんだから」
 ロキが「おいでおいで」と手招きすれば、女性が数人前へ出て、ホークマインドの手を引いた。
 それらの女性は、下着にも近いような、過度に性を強調した格好をしていた。
「座ってくださいな、タカシさん」
「何食べたい? タカシ」
 その中に。
「飲み物をどうぞ。タカシくん」
 アガットが居た。
「いやー、苦労したぜー。お前、人間の女に“タカシ”って呼ばせて喜んでるそうじゃねぇか」
 アガットは、皆と同じような布の切れ端のようなものだけを纏い、ホークマインドに酒を注ぐ。そして、他の女と同じように、ホークマインドの懐を、胸を、素肌をまさぐった。
「たいっそうな趣味だなぁ! 人間の女なんかに興味あるなんてよぉ!」
 ホークマインドは不機嫌な顔を隠しもせずに。
「で、人間界への干渉じゃないなら、本題は何だ」
 問いに。
「あんたに“ぎゃふん”と言わせに、な。たぁかしちゃん?」
 言えば。アガットの手には一つの宝玉が収まっていた。

○――

 油断をしていたといえばその通りだ。
 アガットを意識的に見ないようにしていた、と言うことも大きい。
 それにしても失態だった。
「ま、カッコつければダチ公のお礼参りだよ。お前に負かされて以来、トールちゃん元気なくてなぁ……」
 今、ロキに左腕にはアガットが。右手には宝玉が収まっている。
「どーんな不様に負けたのか聞いても、“敗者の弁など役に立たぬ”の一点張りでつまんねーったらありゃしねぇ」
 だからさ。と笑顔を作り。
「トールちゃん凹ましたお前を凹ませに来たわけだ。ほーら、人間関係なーい」
 宝玉をぽちゃんとウィスキーグラスに落し、それを味わう。
「……だったらその女たちも関係ねぇな。さっさと開放してやれよ。こんな狭いところじゃ戦えねぇだろ」
 うん? とロキは首をひねり。
「ああ、こいつら? こいつらならもう――」
 指を鳴らすと、キャバクラの一室が、椅子や机はそのままに空中へと移っていた。そして。
「アインヘリア。だぜ?」
 アガットを残した女たちが、巨大な“甲冑”に呑まれた。
「こっち側。もう“神様の仲間入り”ってわけさ。いやー、ワルキュリアにばれない様に、神和性高い人間探すの苦労したぜー。……ってたぶん、他の神々のお手付きなんだろうなー……うへー、あとで超怒られる」
「アインヘリア……戦乙女の集める、人間の魂魄か」
「そ。いや、まだ死んでないよ? まぁ、終わったら上へ連れてくけど、さ。どーせ百年も生きねぇんだ。大差ねぇって」
 言って、ロキはウィスキーと共に宝玉を口に含む。そして、口移しで傍らのアガットへと注ぎ込んだ。
「ん……く」
 彼女は喉を鳴らし。
「く……ん」
 宝玉ごと、呑み込む。呑み込まされる。
 ロキはだらりと脱力したアガットを宙に投げ、指を鳴らすと、アガットは他のアインヘリアと同じように甲冑に呑まれた。
「ほーれ、タカシちゃん。神体呼べよ。んでコイツらの腹割って大切な大切な宝玉を取り返しな」
 んべ。と舌を出したロキの眼前。巨大な拳が迫っていた。

○――

 青い巨神はロキを殴る。そのはずだった。しかし。
「残念ちゃん」
 目の前にあるのは、巨大な大地だった。
「紹介しよう。うちの息子。ミドガズオルムだ」
 気付けばロキは、ドンガリ帽子のような頭をした、パッションピンクの神体へと変異していた。
「まぁ、大きすぎてこの世界には入りきらないから“腹”だけで行儀悪いけどご勘弁な」
 真っ赤な月と漆黒の闇。その中で。彼は上下逆さまに、斜めになりながらミドガズオルムの“腹”に立ち。
「色男、金と力はなかりけり。ってね。大体、トールちゃん泣かした奴に腕力で勝負挑まないって」
 気付けば、青い巨神――ホークマインド自身であるヴィンドゥーラは、アインへリアに囲まれていた。
『じっとしててね、タカシちゃん』
『痛くしてあげるからね、タカシ』
 口々に元の声で囁き、手にした槍でヴィンドゥーラを突く。
「っぐ」
 ロキは神体のまま腹を抱えて笑い。
「反撃しちゃえよタっカシちゃーん。殺したっていいぜ。そしたら大手を振ってコイツら神界に持ち帰れるしさ」
 言って、神体サイズの多機能型携帯端末を取り出して「ほっら、ぎゃっふん。ほっら、ぎゃっふん」と囃し立てる。
 その姿にホークマインドは。
「…………」
 なされるままに攻撃を受け。そして。
「……詫び入れりゃ……いいのか」
「あん?」
「そうすりゃ……こんな意味のねぇこと、終わりにしてくれるのか」
 ロキが声にならない笑い声を上げると同時。
『鷹志くんの、バカァッ!!』
 一体のアインへリアがヴィンドゥーラを平手打ちした。
『“してくれる”じゃない。終わりに“する”のが、鷹志くん、だよっ』
 ロキは腹を抱えて大笑いし、残るアインへリアルも『バカァ』『バカァ』と平手打ちをする。が。
「……おう。目ぇ覚めた」
 ヴィンドゥーラが、一体のアインへリアの腕を掴んだ。
 その様子に「はぁ?」とロキは笑いを止め。
「んじゃー、タカシちゃんの人体解体ショーの始まりか? さーて、何匹目でアタリを引くでしょー? ってね」
「いや」
 ホークマインドは意識で笑みを作り。
「宝玉は、“ここ”にある」
 そう言って、自分を『鷹志くん』と呼んだアインへリアを、アガットの声を、抱きしめた。

○――

 ロキは思う。
「同じ世界にある限り。“俺の手の中”にある限り。距離は意味をなさない」
 馬鹿な、と。
「――ナウマク」
 偶然か、とも思う。
「――サマンダボダナン」
 しかし、ヴィンドゥーラは。ホークマインドは。確かに確証をもって“一体の”アインへリアの手を引いた。
「――インダラヤ……ソワカ!」
 言葉の後変幻する姿。青く、そして神々しい、その姿は、まさに力の象徴だ。
 その手には、緑の髪の少女が、しかししっかりとその指につかまっている。
「お前……まさか人間の見分けが付くのかよ……っ!?」
 ロキにとってそれは驚愕だった。
 自分たちの、神界にとっての糧。
 ただただ数だけが居て、いつの間にか生まれて、消えてゆく。
 食料のようなもの。
 空気のようなもの。
 それがロキにとっての「人間」だった。
 豚の見分け、鶏の見分けが付くような人間。それが、ロキにとって人間の見分けが付く神だった。
「ってことは……」
 引きつるように、ロキは顔をゆがませ。
「“タカシ”って呼ばせて喜んでた女って……その一人だけかぁ!?」
「よろこんでねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ」
 雷撃が落ちた。
 ミドガズオルムが砕け消え、アインへリアたちが元の女性へと戻っていく。
 数拍。
 轟音の後。赤い月と闇の残った、静かになったその場。
 そして、生まれる笑い声。
「し、死ぬっ。笑い死ぬッ。うはははははっ、トールちゃん助けてよぉ!」
「本当に死ぬところであったぞ、ロキよ」
 見れば。雷撃の跡に一つの影があった。
 白い髭の大男。雷神トールと、それに御姫様抱っこされるロキだ。
「いーんだよ俺りゃ。どーせラグナロクまで死なねーし。……死ねばラグナロクなんて起きねーしな」
 ヒーヒー笑い。ちょっと焦げた髪を払いながらトールから降りる。その後ろには巨大な機械の乙女が頭を下げていた。
「はははっ、おもしれー。すっげぇおもしれぇ。もうトールちゃんの仇討ちなんてどうでもいいや」
「死んでない。……ちゃん付けはもう言い飽きた」
 呆れたようにトールは言って、ヴィンドゥーラと正対する。
「思った以上に早い再会であるな、雷帝」
「勝手に格下げんじゃねぇよ、カミナリオヤジ」
 間が数秒。
「思った以上に早い再戦であるな、雷人」
「今度こそ滅してやろうかこのオヤジ……ッ」
 それぞれ、機械乙女と緑の少女に止められて、そしてロキはさらに大笑い。
「満足したっ。すっげー満足したっ! ここはお前の“人間大好き”に免じて退いてやるよ!」
 その「退いてやる」にカチンときたホークマインドに、しかしロキは。
「――退散だ。フェンリル。そしてヘル」
 言葉と同時。
 赤い月と漆黒の闇が消えて、黄昏残る澄んだ夜空が現れた。
「まったくーるぜっ。タぁーカシちゃんっ」
 くるりと。一回転してロキは消える。
「もうくんなっ」
 続けて消えるトールと機械乙女。しかしすぐに空間からロキが顔を出して。
「言い忘れた」
 へっ。と笑って。
「“ぎゃふん”」
 それだけ言って、「じゃあな」と消えた。
 残されたホークマインドは、同じく残された女性たちをそっと地上に降ろしてため息交じりにキャンピングカーへと帰り……。
 そして、その入り口には、『お詫び』と張り紙されたブランドネギが、束になって積んであった。

○――

 数日後。
 長ネギが切れたので買い出しに行く、と言ったアガットに、ホークマインドが付いて行った、そんな日。
「ハザマ……探偵……事務所……?」
 件の繁華街の路地裏。その近くの通路に、見慣れない探偵事務所が開設されていた。
「……ここ、通路だけど……あれ?」
 アガットがありえない場所にある事務所入り口を見て首をひねっている。ホークマインドは。
「ネギだ。長ネギ買うぞ」
 アガットの手を引いて、スーパーマーケットの自動ドアをくぐると、そこには10数人掛けのピンクのソファがあり。
「へいらっしゃい。ハザマ探偵事務所。所長のロキ様です」
 白いスーツに黒いシャツ。赤いネクタイで髪を撫で上げたロキに対し。
「帰れ」
「ひでぇよ!!」
 ホークマインドは長く長くため息をつき。
「帰れ」
「捻ろうよ!!」
 まぁまぁ、とアガットが言うのでホークマインドも鼻でため息をついて。
「で、何だ。リベンジマッチか? 前のはトールの怒り、今度は俺の怒りだってか?」
 別にかまわねぇと言うホークマインドにいやいや、と手をパタパタさせ。
「見てわからん?」
 と、傍らのチャイナドレスの女性を抱いた。
 続けてスーツのジャケットを開き、胸のホルダーにさした拳銃をちらちら見せて。
「……た、探偵……さん?」
 おずおず言うアガットに。
「おおーっ、正解っ!! ハードボイルドだろー? ……ん?」
 ロキはアガットの顔を見て、近づき、スンスンと臭いをかいで――チャイナの女に引き戻された。
「わかった、“アガット”だ。当たってるだろ!」
「せ、正解……です」
 どーだー、とドヤ顔のロキに、いい加減ホークマインドの我慢が限界になり。
「覚えた。アガット。アガットだ。――あ、そういや宝玉どうした? ちゃんと尻の穴から――」
 言いかけてチャイナとピンク髪に蹴り飛ばされた。
「取り出そうと思えば取り出せる。……ちょっと、自然に出てこないか待ってるだけだ」
 言って緑髪に「タカシくんのバカァ」と平手打ちされた。
「……まぁ」
「……それはそれとして」
 チャイナ服の女の出したコーヒーに、全員座り。
「で? この女、あの事件の時の女だな?」
「勘違いすんなよ。これは勝手になついてんだ。……くっそ、お手付きじゃねぇ“アタリ”引くたぁ俺もついてねぇ……」
 言うロキの手を女はつねり。
「中々刺激的な体験で“忘れられなくなっちゃった”の」
「俺ぁ、何度も“忘れろ”って言ってんだけどなぁ……ききゃしねぇ」
 あー、また脱線した、とロキは言って。
「ま、言っちまえば“アンタを見習って”だな」
「ふざけんな」
 いやいやホントホント、とロキは両手をパタパタ。
「楽しいぜ? 探偵。モノ運んだり、始末したり、掃除したり」
「運び屋、始末屋、掃除屋、か」
「タンテーだよ。ハードボイルドの、な」
 笑う。
「あいつら“これで終わりになる”って思って俺に依頼してくるんだ。――そっから転がりはじめるってのになぁ」
 深い笑みと共に、身を一度震わせて。
「ああ、“人間”ってのは面白れぇ」
 恍惚にも似た表情を浮かべるロキに。
「……で」
 明らかに不機嫌なホークマインド。
「怒んなって。挨拶だよ。“人間として”ラグナロクまでの暇つぶしするっていう。そーいう挨拶」
「“人間として”……だと?」
 うんうん、とロキは頷き。
「見ての通り、探偵稼業だ。この探偵事務所は“見えるものにしか見えない”そして“見えるものの前に現れる”そういう作りになってる。それ以外は人間のやることと同じだよ」
 だから、な。と。
「神界は関係ー無い。俺の趣味だ。お前とおんなじ。と、そういう宣言」
 直後に「ふん」と鼻息荒く立ち上がるホークマインドに。
「大丈夫。アタシがついてるから。もし万が一、アタシが居なくなったら、“タカシ”ちゃんの出番。ね?」
 とチャイナの女がウィンクするので。
「……行くぞ。アガット」
「え、あ、うん」
 とてとて付いて行くアガットに。
「あ、忘れモン」
 ん? と振り向くと。そこには探偵事務所はなく。
 ただ一束の。
「……長ネギ……」
「『そろそろ切れる頃だろう』……トールちゃんから、だって」
「お前までちゃん言うな……」
「だって書いてあるんだもん……」
 はぁ……とホークマインドはため息を吐き。そして。
「で」
「うん?」
 「いつ出てくる?」と問えば、「ばかぁ」と平手を食らった。
 そして。
 仕方ないのでホークマインドは、探偵事務所のあった場所に向かってこう言った。

「ぎゃふん」

 と。